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「私の履歴書」についての記事まとめ

2019/03/05

院長ブログトップ > 私の履歴書(第7回)

私の履歴書(第7回)

また数年も書かないことが起きないように、今月も「私の履歴書」を書きます。 

昭和57年1月8日。 

この日僕が日本に引っ越ししてきた日です。 

最初は住む家がなかったので、家が決まるまでの約1~2週間は神戸の「三宮ターミナルホテル」に宿泊していました。
当時の記憶はかなり断片的ですが、このホテルの朝食が美味しかったこと、新しい家の神戸市東灘区住吉台の
マンションが(アメリカの家にくらべると)すごく狭かったこと、引っ越しの荷物が引っ越しの過程で一部紛失し、隣の親友のマイケルとの写真が1枚もなくなってしまったこと思い出します。

新しい家に転居後、神戸市立渦が森小学校の小学2年の3学期途中から編入。 

すぐに友達になったのは、同じマンションだった同級生の水嶋くん、1学年上の横田くんと貴博くん。
小学生でしたので、学年が変わるたびに仲が良い友達というのは1年ごとに変わりがちですが、貴博くんとだけは僕が再び小学6年に引っ越しするまでの3年間はずっとよく遊びました。僕が小学3年生くらいの頃、いじめにあっていた時もいつも仲良くしてくれたのはこの
1学年上の貴博くんでした。
ほとんど良い思い出がない小学校
生活で貴博君は僕の大切な思い出です。 

手打ち野球や手打ちテニスをやったり、川でイモリやザリガニを採ったり、そんなことをして友達とは遊んでいた思い出があります。
アメリカでの遊びとは全く違っていましたが、子どもの順応性はすごくて、日本での生活もそれなり楽しんでいたと思います。
 

ただ、小学3年生の冬に一度だけ学校に本当に行きたくないと思った記憶があります。
連日「外人、外人」呼ばわりされ、休み時間も仲間外れにされていました。どうやってそのつらい難局を乗り越えたのはわかりませんが、きっと貴博くんだけでも遊んでくれていたことに救われていたのだと思います。
 

貴博君とは僕が小6に引越ししたあと、一度だけ小6の終わり頃に会ったきり会うことはありませんでしたが、今の時代になってフェイスブックを通じて再会し、数年前に大人になってから実際に会いました。その時は懐かしい思い出話で盛り上がりました。 

神戸市立渦が森小学校

僕が通っていた時代は総生徒数2000人前後のマンモス小学校でした。
僕の学年はまさに第2次ベビーブームのピークの年で、1組40人
以上のクラスが9クラスありました。小学校の学区内には団地やマンションが乱立し、住宅地なのに凄まじい人口密集地帯だったと思います。
今から10年くらい前にこの小学校があった渦森台や当時住んで
た住吉台(兵庫県神戸市東灘区)をドライブがてら回ったことがありましたが、団地は空き家だらけになっていて、渦が森小学校の校舎も半分程度になっていました。
すでに激しい人口減少始まっていると思いました。 

日本に引越ししてからの12年の思い出はあまりありませんが、小5は比較的思い出深いです。(次回に続く) 

元神賢太

 

 

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2019/02/05

院長ブログトップ > 私の履歴書(第6回)

私の履歴書(第6回)

今回のブログは、このブログの不連続シリーズ「私の履歴書」の第6回です。
第5回は2016年でしたので、ずいぶんと空いちゃいました(笑)。すいません。

振り返ってみると、2017年より埼玉川口院をオープンさせ、その前年の2016年より準備に忙殺され、2018年は血迷ったかのようにコンテストに向けてトレーニングと減量で頭が一杯でした。
履歴書の原稿を書く際の「記憶を思い出す」作業は、時間と精神に余裕がないと意外とできない作業なのかもしれないです(いいわけ)。
そう考えると、今は少し精神的に余裕ができたのかもしれません(笑)

第5回の履歴書までは、生まれて8歳までアメリカで暮らしていたことを書きました。
昭和57年1月に僕は突然日本に引っ越しました。アメリカで現地の公立の小学校に通っていたので、当然英語のほうが日常的に使っていました。
日本語は週1回土曜日の日本語学校(補習校と呼んでいた)と親との日本語での日常会話で何とか身に付けていましたが、普通の日本人の小学校2年生から見るとかなり変な日本語を使っていたと思います。
当然、日本の小学校の同級生からは「外人、外人」呼ばわりされ、軽いイジメを受けました。
アメリカでの週1の補習校の話に戻りますが、米国の公立小学校は平日しかなく、同級生の友達が土曜日の朝という最も気持ちが解放されている時間に、
自分たちの家族だけがその時間に最も苦痛の勉強(日本語)を家から1時間くらいかけて車で通っていたこの補習校がたまらなく嫌でした。
7,8歳の時の記憶ですが、補習校への行きの車の中の憂鬱な気持ちは今でも思い出すことができます。

補習校は大嫌いでしたが、この補習校での友達(日本人)は今でも繋がっていて、今も友達です。自分の兄弟のように、自分と同じ体験をしてきたからこそ自分のルーツを本当に理解できる大切な友達です。
当時の補習校は、たぶん下記のリンク先です。
http://www.jwsny.org/ 

日本に引っ越しして、最初に住んだのは兵庫県神戸市(東灘区住吉台)です。
大人になって当時を振り返ると、8歳の少年にいきなり凄まじい環境の変化が起こり、凄まじいストレスを受けたと思うのですが、それを乗り越えられたのは、きっと子供というのは大人に比べるとかなりストレスに強いのでしょう。
正直、最初の1,2年で楽しい思い出はほとんどないのです。。。
(第7回に続く)

 

元神賢太

 

 

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2016/03/29

院長ブログトップ > 私の履歴書(第5回)

私の履歴書(第5回)

アメリカのニュージャージには8歳まで住んでいました。

小学校低学年までしかいなかったので、よい思い出や楽しかった体験しか今となっては記憶にありません。kindergartenと小学校はEast Brook Elementary School (Park Ridge, New Jersy)に通っていました。アメリカの小学校の義務教育というものがどういうものだったのか、あまりよく覚えていませんが、記憶があるものを列挙しますと下記のようなエピソードがあります。

●教室にすでにマックのパソコンがあった!
小学校3年生の担任(たしかMrs. Bakerという先生)に個人的な計らいと思うのですが、教室にすでにパソコンがあり、交代でパソコンに使う練習をしていました。1980年前後の話なので、最初のマックパソコンが出て間もない時代でした。放課後は同じ小学校のMrs. Bakerの二人の子供が放課後の教室でそのパソコンでゲームをやっていたのを思い出します(まだファミコンすら発売されていない時代です)。

●1学級20人弱で掃除はしない
1クラスは16人くらいで、1学年は2クラスだけでした。日本に帰ってきたときは40人以上のクラスが9組まであったので、この違いははっきり覚えています。また教室やトイレを生徒が掃除するということは絶対なかったです。用務員のおじさんがやっていました(公立小学校です)。

●個別指導が行き届いている?
僕は日本人なので、現地のアメリカ人と比較すると発音がおかしいところがあったようです(当時の自分は納得がいかないという記憶も覚えていますが)。僕のように発音が少しおかしい生徒(確かイタリア人系の子など1クラスで3人くらい)に個別に指導をする時間がありました。今も思うことですが、アメリカの教育は小学校レベルから、個々の能力に合わせた(個別)指導というのが徹底されている気がします。すでに小学校の低学年から美術が上手な子は、放課後に美術の先生から個別の授業があったりしました(友人のScottや僕の姉がこれに選抜されていて、うらやましかった記憶が残っています)。高学年になると、ほぼ全科目で科目別・学力別のクラスに振り分かれます。(日本では高校生くらいからですかね)。日本の(80年代の)教育が「落ちこぼれをなるべく作らず、全体が平均的なレベルになるように教育する」ことに重きが置かれていたとすれば、アメリカの教育は「いかに個々の力や個性を伸ばすか」ということに重きが置かれていた気がします。これが現代の日本と米国の社会を比較した際、そのまま国民性や社会構図に反映されている気が今はします。

●Kelly
まったくアメリカの教育とは関係ありませんが、同級生にKellyという金髪のかわいい女の子がいました。

以上、現地の公立小学校の教育の記憶はこんなことぐらいしか覚えていません(笑)
また思い出したら、この回のブログに書き足していきますね。

East

我が母校のEast Brook Elementary School(グーグルストリートビューより)

(第7回に続く)

元神賢太

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2015/07/07

院長ブログトップ > 中学校の同窓会に参加

中学校の同窓会に参加

先日中学校の同窓会が卒業後初めて開催され、26年ぶりに旧友や先生と再会してきました。
前日の仕事が終わってから、3年ぶりに兵庫県西宮市の実家に帰り、その翌日に同窓会への参加となりました。26年ぶりの友達と再開するため、友達の名前や当時の状況を思い出すために実家の屋根裏の倉庫に眠っていた卒業アルバムと文集をその前日の夜に開いてみました。
そこで、自分の書いた卒業文集を読み、40歳を超えたオッサンが15歳の子供の文章を読んで妙に納得してしまった(笑)

文集

上記:僕が15歳時に書いた文集です

(暇なかたは、拡大して読んでください。tooがtoになっていますが、こんなミスをするほど馬鹿だったのかなあ?ケアレスミスだと思いたい(笑))

You cannot be too careful in choosing a friend.
「友達を選ぶときには注意をしてもしすぎることはない。」
本当にこの通りですね。
中学生だった僕も今の僕もこの言葉には共感します。
日本語では「友達は自分を映す鏡」とも言いますね。
26年ぶりに自分の文集を読んだり、懐かしい友達に会ったりして、すっかりノスタルジックな気持ちになってしまった2日間でした。

そんな気持ちになるのも年をとった証拠ですね(笑)

では、また。

元神賢太

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2015/03/10

院長ブログトップ > 私の履歴書(第4回)

私の履歴書(第4回)

僕は8歳までしかアメリカに暮らしておらず、その後33年は日本で暮らしていますが、未だに心の中で「本当に懐かしくて、帰りたい」と思う故郷はアメリカのニュージャージーなのです。
大学の卒業旅行の25歳時に一人でレンタカーを借りて、ニューヨークからニュージャージーまで行ったことがあります。当時はまだレンタカーにカーナビなど常備されておらず、道路地図を本屋で買って、事前に父からきいた情報をもとに、なんとか8歳まで育った町に辿り着きました。17年も経っていましたが、あまり変わっていなかった記憶があります。その旅行では隣に住んでいた親友のMikeにも17年ぶりに再会することができました。
17年ぶりに故郷に行けてかなり気持ちがすっきりした時期もありましたが、それからさらに16年経過して、最近またじわじわと望郷の念にかられているのです。
どうしてそんなに故郷が懐かしいのか、自分なりに考えたのですが、きっときっちりお別れができなかったからではないか、と思うようになりました。
日本への引っ越しは僕がもちろん選んでわけではなく、僕はNew jerseyにずっと住んでいたかったのだ。
高校以降の人生の選択って、皆様概して自分で選択しているので、大なり小なり覚悟を決めて引っ越しなり、道を選択していると思います。ただ、小学生の引っ越しって、本人の意思とは全く関係なく機械的に実行されてしまいますよね。
覚悟もなく強制的に引き離されているから、いつまでたっても、(大人になっても)、望郷の念にかられるのではないか。
いつかこの仕事が一段落して、1か月、いや、1年くらい時間ができたら、New JerseyのPark Ridgeに僕は行きます。そしてしばらくPark Ridgeに住んだのち、きっちりお別れをしてきます。
そうしないと、僕はいつまでも古い記憶を引きずったまま生きなければならず、望郷の念を断ち切れずに死んでしまう気がします。

アメリカ写真
故郷の家の前の現在(グーグルストリートより)

(第5回に続く)
元神賢太

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2014/06/24

院長ブログトップ > 私の履歴書(第3回)

私の履歴書(第3回)

第2回では中学時代に話が飛びましたが、今回から時系列に戻しますね。

ニューヨークで1973年に生まれた僕は、2年後に隣りのニュージャージー州に引っ越します。僕の最も古い記憶はnursery schoolに通い始めた頃なので、おそらく3,4歳です。そのnursery schoolはlollipop schoolと呼ばれていて、帰るときに必ず四角いlollipop (ペロペロキャンディー)をくれました。その名称と、住んでいた町をグーグルでたった今検索したところ、見つかりました!
//www.lollipop-preschool.com/Lollipop/General_Information.html

上記のnursery schoolに僕は4,5歳まで通っていました!

この頃から親友になったのが隣に住んでいるMichael White Moore君です。彼は電話を取るときなぜかミドルネームまでフルに名乗るので、僕は彼のミドルネームまで知っているのです。普段は”Mike”と”Ken”と呼び合っていました。

当時と言えば、アメリカではStar Warsが上映されたばかりで、子供は皆Star Wars figuresで遊ぶのが常でした。日本の幼稚園生がウルトラマンの人形と怪獣とで遊ぶのが常であるように。

star wars フィギア
(これがStar Wars figuresです。)

他に遊びと言えば、トミカのミニカーと同じで、アメリカではmatch boxというミニカーがあって、これを集めていました。

外での遊びは、庭でタッチフット(アメフトの防具をつけずに、スポンジのような柔らかいボールで遊ぶ)をやったり、自転車(BMX)を乗ったりすることでした。

タッチフットボール
(タッチフットで使うスポンジのボール)

BMX
(BMX)

たった8歳(小学校2年生の途中)までしかいなかったアメリカですが、僕の人生の記憶のなかでは、かなりのウェイトを占めています。

そして例のごとくニュージャージーでの住所

250 Park Avenue, Park Ridge, New Jersey

をたった今グーグル検索すると、僕が8歳まで生活していた家が出てきました!

ニュージャージー家

住んでいた当時はもう少し濃い緑でしたが、外観もブロック塀も全く変わらずに今もあるようです。(僕にとっては懐かしすぎる!!)

(第4回に続く)

元神賢太

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2013/06/11

院長ブログトップ > 私の履歴書(第2回)

私の履歴書(第2回)

前々回のブログ「根性焼き、たばこの火傷跡を消す」
に書いた僕の過去の行いが、一部の読者にはけっこう衝撃的だったらしいです(笑)
なので、今回は、爆竹当時の中学生時代を思い出して、2010年に書いた「私の履歴書」以来の2回目を書きます。
(「先生、履歴書の第2回書いてください」との患者様からの要望がありましたし)

私は中学時代、「森田塾」という超スパルタ塾に通っていました。場所は、神戸市灘区六甲道にあった塾です。地元の一部では、ある程度知れ渡っていた塾です。なぜ知れ渡っていたかと言うと、そのスパルタぶりからです。宿題を忘れると、竹刀で頭を叩かれたり、竹の端キレで顔をたたかれたり、大の大人(塾の先生)に思い切りビンタされ、体を吹き飛ばされたり。。。そんな塾でした。(血を流していた同級生もいたな~)
ちょっと前の「ゆとり教育」とは、正反対です。
入塾したばかりの中学1年の春、その時の森田塾の国語の先生(武田先生)の言葉を今でもよく覚えています。(多少言葉は違うかもしれませんが、次のようなニュアンスです)
「お前らは、中学受験で失敗した敗者だ。そして中学受験で失敗するような奴に天才はいない。天才は、皆中学受験で成功している。敗者で、凡人のお前らが、成功するには、人一倍努力しないといけない。頭がいいなんて思うな。本当に頭のいい奴は、とっくに受かっている。。。」などなど、散々自分の出来の悪さを叩き込まれました。中学3年間、折りに触れてこんな話ばかり聞かされるので、「努力しないと人並みになれない」と完全に洗脳されてしまいましたね。
世の普通の大人たちが「子供は無限の可能性がある」などと発する影響で、自分は特別な存在だとまだまだ勘違いしたい年頃なのに、森田塾は12年の人生を全否定するわけです。森田塾が中学生の僕に与えた影響は計り知れません。事実、その言葉は今でも僕の人生に影響を与えています。
塾には絶対部活に入るなと言われ、中学1年は週4回、中学2年は週5回、中学3年は週6回の塾通いでした。夏休みも冬休みも勉強合宿。ストレスというものがまだ認識できない年頃なのに、心は相当に貯まったストレスを解放させるやり場を探していたのかもしれません。
そんな生活を送っていた中での「爆竹事件」でした。授業が始まる前に、黒板の横にあった新品のチョークが入った箱の下の方に爆竹をしかけ、少し導線を長くして、爆竹を爆発させます。そうすると、チョークは箱の上では新品のまま並んでいるのに、中は全部折れているのです。授業中に先生が『新しいチョークを、』と思って、手を伸ばしたのに、何度も折れた短いチョークを出てくるのです。隣の友人と込み上げてくる笑いをぐっと凝られながら、目を見合わせたのを今でも覚えています。でも、これが成功したのは1回だけで、後日2回目の爆破決行直後に現行犯で先生に捕まり、ボコボコに殴られました。
あれは、確か中学3年の春でした。本来は授業を受けるべき時間(4時間)を塾の職員室でずっと正座させられました。親も呼び出されました。相当叱られて初めて「親に迷惑をかけている、親の期待に沿うような行動をしたい」と思った瞬間だったかもしれません。それから心を入れ替えたのか、相当成績が伸びたのは、今でも覚えています。
僕の中学時代の記憶に今でもかなり大きなウェイトを占めている爆破事件の全容はこのようなものでした。
まだまだいろんなことを書きたい中学時代ですが、またの機会に続きを書きますね。
以上、私の履歴書(第2回)でした。

元神賢太

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2010/10/12

院長ブログトップ > 私の履歴書(第1回)

私の履歴書(第1回)

 ネタに困っているので、不連続シリーズとして、私の生い立ちをたまに掲載させていただきます。
 私が毎日読んでいる日経新聞には、「私の履歴書」として、だいたい還暦を過ぎた著名人が自分の生い立ちを30回(1ヶ月間)に渡って連続で掲載しています。最近では、スポーツ界からは長嶋茂雄氏や野村克也氏、青木功氏、広岡達朗氏、川淵三郎氏、研究者では下村脩氏(ノーベル化学賞)、益川敏英氏(ノーベル物理学賞)、その他には細川護熙氏(元首相)、高原慶一朗氏(ユニ・チャーム会長)、野田順弘氏(オービック会長)などが印象的でした。ほとんどの方が、戦争体験を記憶として留めている世代で、知らない著名人でも、その戦争体験を記している時は、必ず読み込んでしまいます(朝の通勤電車の中)。昔の人は、本当に苦労したんだな、ということがよくわかります。特に印象的なのは、学者や経済界の人たちについては、彼らの勉強時間が半端ないこと、また、旧制高校が、第2外国語(主にドイツ語)までやらされていたのはびっくりです。皆、死ぬ気で勉強していたということも記載がありました。海軍兵学校は、成績がいい順に大きな戦艦に乗船でき、成績が下の方では、人間魚雷(特攻兵器)の搭乗員になったそうです。(木田元氏著)
 戦後の復興期において、私の1,2世代上の方々の苦労があったからこそ、今の私たちの豊かな暮らしがあるんだなということを改めて実感させられます。つくづく今のお年寄りの世代に対しては、優しく労わる必要があると思います。私の父でも、戦後は食べるものがなくて、芋ばかり食べていたから、今でも芋は食べる気がしないと、外食で芋が出てきた時でさえ、お箸をつけることがなかった記憶あります。
  話は大分それてしまいましたが、日本経済新聞の「私の履歴書」に依頼されるような立派な人間には到底なれそうもないので、自己満足のために、自らのブログで「私の履歴書」を掲載させていただきます。本当に度厚かましいことですけど、これは私のブログですから。^_^;
 まずは、私の生まれから。
 私は、父の仕事の関係で、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズ区フラッシング(Flushing Hospital of Medical Center)で生まれました。父は、松下電器貿易株式会社(後に松下電器産業、現パナソニックに吸収合併)に勤めており、仕事内容の詳細はよくわかりませんが、貿易の仕事で、アメリカに行きました。
 父は、就職の前からアメリカでの仕事を希望して、五反田の英会話教室に大学生のころから通っていたことを僕の母から聞きました。就職先も、アメリカでの仕事が可能なところということで決めたそうです。そのあたりの詳細は私が生まれる前の話だから、よくわかりませんが、今後もっと両親から詳しく聞きたいと思います。
 父とその家族は結果的に10年間アメリカで暮らしました。渡米当初は、父はそれほど長くなるとは思っていなかったようですが。私は、渡米してから約2年後に生まれたので、約8年間をアメリカで過ごしました。
生家
写真:40-05 166th St, Queens, NY 11358 。現在の生家の様子。
(昔を懐かしむことが大好きな私はグーグルのストリートビューを愛用してます)

(第2回に続く)
※第2回の掲載時期は未定です。

千葉の美容整形外科 船橋中央クリニック 元神賢太

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